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「自然欠損障害」とは

以下、リチャード・ルーブ『あなたの子どもには自然が足りない』(春日井晶子訳・2006・早川書房)より


「私と同世代の多くの人々は、自然の恵みを可能な限りうけて大人になっていった。(そのことに思いを馳せれば、の話だが)私たちは次に来る世代も同じ贈り物を受けるだろうと信じていた。しかし、何かが変わった。私は『自然欠損障害』と呼んでいるのだが、この事態ののっぴきならなさを、今や私たちは知っている。もちろん、『自然欠損障害』などという診断名はない。しかしこう名付けることによって、この問題にどう対処することができるかを考える手立てにはなる-子供たちのために、そして子供以外の私たちのためにも。」

「この問題を、私たちの文化に見られるこれ以外の変化に関する知見と絡めて研究することがいかに重要であるかは、いくら強調してもしすぎるということはない。そこで、この現象を当面、自然欠損障害と呼ぶことにしよう。私たちの文化は専門用語で頭でっかちになっているし、いわゆる『イルネス・モデル』が多用されすぎているので、他の病の診断名をこうしてもじるのは、どうにもためらわれるところもある。だがおそらく、科学的な研究が続くにつれて、より適切な定義がなされることだろう。前にも述べたように、こういう診断名が実際にあるわけではないが、自然欠損障害という言葉を用いて親や教育者たちと話しあう時、この言葉の意味は明白だ。自然欠損障害とは、自然から離れることで人間が支払う対価であり、そこには感覚の収縮、注意力散漫、体や心の病気を発症する割合の高さが含まれる。この障害は個人、家族、そして地域にも存在しうる。自然不足は、都市の人間の行動さえも変え、ひいては都市のデザインすら変える要因となるかもしれない。なぜなら、長期的な研究から、公園や空き地の不足、あるいはその利用のしにくさと、犯罪発生率の高さや気分の落ちこみなどといった都市における病理とのあいだに関連があることがわかっているからだ。
次章からも述べていくが、自然欠損障害は個人的にも文化全体としても認識されうるし、克服することもできる。しかし、自然不足は単に現実の一側面でしかなく、裏を返せば、豊かな自然に満ちあふれた状態もあり得るわけだ。私たちはこの障害がもたらすものの重要性を考えることをとおして、子供たちが自然と積極的に触れあうことでいかに-生命としても、認識力にも、精神性にも-恩恵を被るかに気づくだろう。実際、新しい研究は自然の衰退とともに何が失われたかよりも、自然の中で何が得られるかに焦点を当てている。『この研究について親たちを大いに教育しなければなりません。子供たちが持続して自然を経験するために、親に自然との触れ合いが楽しいということに気づかせ、応援するのです』と、ルイーズ・チョーラは言う。
そのような知識があれば、私たちは違う道、子供たちと自然との再会へ続く道を選べるかもしれない。」

「一方、明るいニュースもある。自然を適切に利用すれば、注意欠陥・多動性障害(ADHD)のセラピーとして有効に働き、薬物療法や行動セラピーの代わりにすらなるかもしれないことが研究によって示されたのだ。親や教育者に対し、ADHDの子供たちにもっと自然-特に緑-を体験させ、それによって注意力のはたらきを促進し症状をできるだけ軽減させることを勧める研究者もいる。この研究のことを知った私は、『自然欠損障害』という、どちらかと言えば広い意味をもった用語によって、現代の子供たちが抱える問題-彼らがADHDを患っているか否かにかかわらず-を言い表してみたいと思った。繰り返すが、私は自然欠損障害という言葉を科学的用語あるいは臨床用語として使っているわけではない。もちろんアカデミックな研究者たちは、今のところはまだこんな言葉を使っていないし、ADHDの原因を自然不足だけとは考えていない。しかし、これまでに蓄積された科学的な証拠からも、私は自然欠損障害という概念-あるいは仮説-が、多くの子供の注意力不足を高じさせている原因のひとつを表す素人言葉として、適切かつ有効であると思うのだ。」

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