『子どもと自然大事典』(2011・ルック)
第1部「子どもと生きもの」 第5章「子どもと生きもの」より
魚をさばけない親や、目が怖くて尾頭つきの魚を食べられない子どもが増えているという話を聞いたことがある。自然の生きものを「採って食べる」時代から農耕や牧畜で「育てて食べる」時代へ、「育てて食べる」時代からお金で「買って食べる」時代へ、「自然を食べる」という言葉自体が不自然に聞こえないのは、人間が文化によってより便利で快適な生活を追求しつづけてきた結果だろうか。
現代はさらに、魚や肉も解体され加工されたもの、料理されたものを「買って食べる」時代である。自分たちが食べている生きもの本来の姿が見えてこないのも、仕方のないことなのかもしれない。自分が今食べている魚や肉が、生きものとして生きているときの様子を想像できる子どもは、かなり少ないのではないだろうか。
私は毎年子どもたちと、年明けには七草摘み(実際はセリ、ナズナ、ハコベの三種)、三月から四月にかけては土手でツクシやヨモギを摘んだり、ノビルを掘ったり、林床でノカンゾウの若芽を摘んだりして楽しませてもらう。春には湖のワカサギが産卵行動に入り、岸辺に沿って群となって泳ぎまわるので、ワカサギ採りで盛り上がる。初夏となれば里山でタケノコ掘りを楽しみ、公園ではクワの実摘み、湖ではテナガエビ採りである。もちろん、子どもたちに家へ持ち帰ってもらって食べてみてもらうためである。
子どもは基本的に生きものを採ることが大好きである。そして、それが食べられるものだと知るとさらに夢中になる。生きものを「採って食べる」ということは、人間の原体験として現代の子どもにも受け継がれているのだろう。かつては子どもが採ってきたものも、夕食の一品として親から期待されていた時代もあった。現代ではむしろ子どもが採ってきた旬の生きものは、スーパーでは買うことのできないグルメな高級食材といえるかもしれない。
子どもにとっては、遊びながら自分で採ってきた生きものが食べものとなって食卓に並ぶだけでも、自然と生活をつなぐ体験として大切なものである。さらに家族といっしょに料理したり、家族が「おいしいね」と言って食べてくれたりしたら、これはもう子どもにとっては誇らしく喜びにあふれた貴重な体験となるだろう。
私たちは、人間も「食う−食われる」という食物連鎖の中にいる生きものの一種にすぎず、他の生きものたちの命を分けてもらいながら生きていることを忘れてはいけない。「いただきます」という言葉も、食べものを採ったり育てたりしてくれた人や料理してくれた人に対してだけではなく、食べものとなってくれた生きものの命そのものに対する感謝の言葉でもある。これも、子どもたちにはきちんと伝えていく必要があるのではないだろうか。
|